アーシュラ・K・ル・グィンの短編小説『オメラスから歩み去る人々』を読みました。
内容と感想についてお話していきたいと思います。
物語
オメラスは、芸術、科学、そして喜びに満ち溢れた理想郷。その幸福は、一人の子供が苦しみ続けることを犠牲にして成り立っていました。この子供は、暗く湿った部屋に閉じ込められ、虐待を受け続けています。このことは子供たちが八歳から十二歳のあいだに、理解できそうになったときを見はからって、大人の口から説明され、見物した人たちは例外なくそこに見たものに衝撃を受け、気分が悪くなります。
この子の存在を知りながら、その幸福を維持するために、この状況を受け入れている人たち。しかし、オメラスから去ることを選ぶ人たちもいました。オメラスから去ることを選んだ人たちは二度と帰ってこないのでした。
もしも自分がオメラスの住人なら
私がオメラスの住人の一人だったなら、何も知らないときは同じように幸福を享受して生きていただろうし、一人の子供の犠牲を目の当たりにしたら気分を悪くすると思います。受け止め切ることができずにどうすればいいかわからなくなるでしょう。
現実に直面したことで、受け止め切れず否定することしかできない自分の弱さ、まずはそれを受け入れるところまで時間がかかりそうです。
受け入れることができたあとは、知らなかったころと同じように生きていくことはできない、そう思いました。
歩み去る人々は誰もがひとり旅
ここで少し内容の方に戻りますが、オメラスから去ることを選んだ人々の考えや心情についてはほとんど書かれていません。オメラスから歩み去る人々は誰もがひとり旅で、みずからの行先を心得ているらしいとだけ書かれています。
歩み去る人々は誰もがひとり旅で、行先を心得ているらしいというところが考えがいのあるところだと思いました。誰かとではなく、ひとり。
これは、ひとりひとりに突きつけられた、生きていくうえで考慮しなければならない問題で、犠牲のことを知り、犠牲の上に成り立つ幸福をただ享受することに抗おうと模索する選択をすることを、みずからの行先を心得ているらしいと表現したのだと思いました。
同じものを見て、同じように気分が悪くなって、同じような選択に向かったとしても、その選択を生きるのは他でもない私自身。個人です。
『みずからの行先を心得ているらしい』という文章はその本人の視点ではなさそうですが、歩んでいる道は自らが選択しているんだということをちゃんとわかっていますか?知らないフリをしてないですか?といった疑問の余地を与えられているような気がしました。
犠牲になっている一人の子供をどうにか救おうとするだろうか…?
また、理想郷が成り立つために犠牲となっている一人の子供をなんとか救うことはできないか考えるでしょう。
しかし、犠牲がなければ他のみんなの幸福が失われる。
みんなの中に、自分の大切な人も含まれているとしたら?
その大切な人は犠牲のことも知っている、親、配偶者、友人、恋人で、それでも自分を含めたその人たちとの幸福を手放せるだろうか?
犠牲のことすら知らない子どもが健やかに育っている環境を手放せるだろうか?
知らないままでいた方が、見えないフリをしていた方が良かったというのは都合がいいだけで、本当の幸福とは別物のように思える。
それでも社会にとっては大多数の豊かな営みを生み出すことにはなっている。
身近な大切な人たちの幸福を失ってでも、犠牲になっている一人の子供をどうにか救おうとするだろうか…?
この物語をどのように感じるでしょうか?
幸福な現実、不幸な現実があるのではなく、現実に対して幸福だとか不幸だとか主観で言っているのがヒトなのだろうなと思いました。
考え出すとどこまでも考えられそうな『オメラスから歩み去る人々』でした。