2025/1/11配信の『哲学するヨル。』より
哲学を占い等と分別するには何を伝えたら理解されますかね?
難しい言葉では伝わらず、言葉を崩して伝わる何かがあると思って語りかけはします。
己が感じる全ては万人に通ずるものとは鼻から思わず、
感じ取ってくれた人のみが好いてくれています。
学びが人生の嗜好と祖父に教わってきたので
努力はしているつもりですがなかなかに難しいです。
こういったことをおっしゃっているリスナーさんがいました。
このコメントに対して私が気になったこと、思ったことをいくつか書いていきます。
・お祖父様は、何につながる学びを人生の嗜好と教えてくれたのか?
・何がなかなかに難しいのか?
・伝わらない理由は、難しい言葉だからなのか?
・語りかけはします。感じ取ってくれた人のみが自分を好いてくれている。という主張。
などですかね。
お祖父様の言う人生の嗜好となる学びがなにかはわかりませんが、このリスナーさんにとって努力はしているつもりだけど、なかなかに学びっていうことが難しいと感じるってことだと思いました。
お祖父様の言われてる人生の嗜好とはちょっと違うのかなぁみたいな。
一つの出口というか、人生の嗜好につながる例が、以前ブログに書いた『MOMO』という本に書いてあると思いました。
「もしほかの人々とわかちあえるのでなければ、それを持っているがために破滅してしまうような、そういう富がある。」
ここでいう富というのは、本の中では『あざやかな記憶』といっていますが、自分の持ち合わせてる記憶、学んできたこととかですね。そういったものをわかちあえなければ、はげしさを持ってのしかかってくる孤独となるのでしょう。
つまり、理解してほしいってことですね。
学びが難しいのではなく、理解されることが自分にとって難しい。
難しい言葉で伝わらないのもあるのかもしれないけれど、自分の言葉では伝わらないとも言えます。
簡単な言葉に変えれば伝わるのか?理解してもらうための言葉を持ち合わせているか?
そういったことも考えられます。
次に、主張に関してですが、配信中には違和感だけ感じて、指摘できるほど紐解けたり言葉にできたわけではありません。
ただ、この違和感として、言い方と、言う必要があることなのか、といった点が気になったんだなと、あとになって思いました。
孔子をご存じでしょうか?「社会秩序」において、あるべき人の道を模索すると言われる『儒教』の始祖ですね。孔子の論語を読んだことがあるのですが、慎みや品性を学ばせてもらえると思いました。
慎みや品性を持つことはなかなか修練が必要な気がしますが、目指していると気付くことがあって、言う必要のないことを言ってしまうという背景に、余裕のなさというのがあるのではないかと思ったりします。
上から目線で言う必要がないのに言ってしまう、とかですね。そうすることで自分を満たす、そうしないと自分を満たせない、ということでもあるのかなと思います。
そしてこの日、あとから入室してくれた方が『知』のテーマを選んでくださいました。
読ませていただいたタイトルが、
〜 賢さを見せつける必要はない 〜
自分の賢さを不用意に見せつけたりすれば、遅かれ早かれ有形無形の反発や抵抗を味わうことになる。何か良いもの、気分を良くさせるものなどを得ることなどできない。
だから、ふつうの人々と同じように喜怒哀楽を見せ、たまには一緒に興奮などしたほうが賢明というものだ。そうすれば、目立つような賢さを隠せるし、賢い人に特有の、一種の鋭敏な冷たさや考え深さによって他の人々を傷つけることもなくなる。
まさにこの日の配信に相応しいテーマを選んでもらえたなと思いました。
はい、このあたりで話をまとめていきますが、理解してもらいたいという満たされない部分があることを知り、理解されることの難しさも知った。
お祖父様は、この、自分にとって難しいと感じる自分にとっての問題を解いていったからこそ、学びが人生の嗜好と言ったのではないかと思いました。